― 憧れが学びに変わるとき、変わらないとき ―
教育関係のセミナーや研修に参加していると、会場の一角に妙な熱気を帯びた“空間”が生まれていることがあります。
• 講演が終わったあとに、ある講師の周囲にだけ行列ができている
• ブースに並ぶのは、名前の知られた実践家の書籍ばかり
• 参加者のSNSには「〇〇先生と写真を撮っていただきました!」という投稿が並ぶ
それはまるで、アイドルのサイン会のような熱量。
いや、それが悪いというわけではありません。
教育界にも“憧れ”や“推し”の文化があっていい。むしろ必要だと思う。
けれど、正直に言えば、あの光景にどこか少し気持ち悪さを感じてしまうことがあるのです。
なぜ違和感を覚えるのか?
その理由を突き詰めていくと、次のような思いに行き着きます。
「これは“学び”というより、“信仰”に近い空気じゃないか?」
もちろん、講師に感謝したり、憧れを持ったりするのは自然なことです。
でも、「その人が言うから正しい」「その人の本は全部買う」「話を聞けただけで満足」という空気感が強まると、学びの本質がどこかに置き去りにされてしまう気がするのです。
教育界にも“推し文化”が広がっている
今、教育界には“推し”がいます。
それはとてもよくわかります。
• 毎日のようにSNSで発信している
• 実践をわかりやすく言語化している
• メディアに出ている、書籍を出している
こうした存在は、現場の教師にとって大きな刺激になりますし、閉じた教室から一歩外へ出るきっかけにもなります。
でも、その“推し”を囲むコミュニティがあまりにも内向きに熱を帯びるとき、そこに同調圧力のようなものが生まれるのも事実です。
「すごい人をすごいという空気」が、逆に他を排除することもある
「〇〇先生、すごいですよね」
「△△先生の方法、あれが今のトレンドですよ」
「この人を知らないなんて、もったいない」
そういう会話が、教育セミナーの会場のあちこちで交わされています。
そして時折、そこには見えない壁のようなものが立ち現れてきます。
• 「その人を知らない」ことが“恥”であるような空気
• 「自分には関係なさそう」と感じた人が、学びから距離を取ってしまう
• 一部の“支持者”だけで空間が閉じていく
つまり、“推し”を中心とした学びの輪が、開かれた学びから、囲い込まれたファンダムになってしまうのです。
憧れは「きっかけ」にすぎない
憧れは大切です。推しも悪くない。
でも、それはあくまでも「学びの入り口」であって、「学びの目的」ではありません。
• 憧れの実践に触れ、自分の実践を見直す
• 講師の話から問いを得て、自分の現場で実験してみる
• 自分の言葉で語り直すことで、学びを“自分ごと”にする
そうしたプロセスがあって初めて、憧れが“学び”に変わるのだと思います。
でも今の教育界の“推し活”は、そのプロセスを経ずに、「推しに触れたこと自体」を学びと勘違いしてしまう危うさを孕んでいるように思えてならないのです。
推しがいることで、「考えなくなる」こともある
憧れの人の言葉は、力があります。
でも、その力が強すぎると、「考えなくて済む」という状態を生んでしまうこともあります。
• 「あの人が言っていたから、やってみよう」
• 「その先生が批判していたから、これはナシだな」
• 「この考え方が主流みたいだから、合わせておこう」
それ、本当に自分の問いなのか?
目の前の子どもたちに必要な実践なのか?
そうやって、思考のスタート地点が“自分”ではなく“推し”になってしまうとき、学びはゆるやかに形骸化していきます。
おわりに:推しを持つことと、推しにのまれないこと
教育セミナーで「推し」に集まる空気に、少し違和感を感じてしまうのは、
たぶん、「学びの場」だったはずの空間が、「崇拝の場」に変わっていくのを見てしまったからです。
もちろん、それは参加者の自由です。
推しに会えて嬉しい、言葉をもらえて励まされた、それでまた明日がんばれる――
それで救われている先生たちもたくさんいるはずです。
でも一方で、推しの言葉に酔いすぎて、考えることを手放す空気には、慎重でありたい。
そして、「推しのための学び」ではなく、「子どもたちのための学び」にちゃんと回帰する視点を持っていたい。
推しがいることは、悪くない。
でも、推しだけに囲まれた世界では、広がりや深まりが生まれにくくなる。
教育の世界は、もっと複雑で、もっと多様で、もっと開かれているべきなのだから。