「学級経営力が大事」と言う人は、授業力を置き去りにしていないか?
「授業力が大事」
「学級経営がすべて」
「まずは子どもとの関係づくり」
現場では、こうしたフレーズがよく語られます。
そして、どれも正しい。
でも、最近ちょっと気になっていることがあります。
それは――
「授業力が大事」と言う人は、その中に“学級経営力”も含めて語っているのに、
「学級経営力が大事」と言う人は、“授業力”を別物として置き去りにしていることが多いのでは?
という違和感です。
今回はこの“非対称性”に注目しながら、「授業」と「学級経営」がどうつながっているのかを、あらためて言葉にしてみたいと思います。
授業力=“教える力”ではない
まず、よくある誤解から。
「授業力」と聞くと、黒板をきれいに書く力?
発問がうまいこと?
学力を伸ばすこと?
確かにそれも一部です。
でも、本質的な授業力とは、**「子どもたちが安心して、意味のある問いに出会い、学びを深めていける場を設計・運営する力」**のことです。
そこには、当然以下のような要素が含まれます。
• 子どもが話したくなるような空気づくり
• 授業に入る前の“静かな立ち上がり”の設計
• 誰もが安心して失敗できる関係性
• 終わった後の学びの整理と次への接続
つまり、授業力とは、教科指導の“中”に学級経営の要素を内包しているのです。
だから「授業力が大事」と言う人の多くは、「学級経営も大事にした上で、授業の中でそれを実現する力が問われる」と言っている。
一方、「学級経営が大事」という言説は?
では、「学級経営が大事」という言葉はどうでしょう。
たとえば、
• 子どもとの信頼関係をつくる
• トラブルを未然に防ぐ
• 生活のルールを整える
• 安心して過ごせる雰囲気を育てる
といったことが挙げられるでしょう。もちろんこれらは教育の土台です。
「教える」以前に「居られる」ことが必要――その通りです。
しかし、そこだけで終わってしまっているケースも多いと感じるのです。
「教室の空気をつくる力」は授業に現れる
たとえば、こんな場面。
• 子ども同士は仲がいいけど、授業中はうるさい
• 生活面の指導は丁寧だけど、授業の設計が甘い
• 授業になると子どもの集中が続かない
• 毎回、「うまく流れなかった…」と自分を責めている
こういったケースは、「学級経営力はある」と見られても、“授業の場”に反映されていないということが多い。
つまり、「学級経営力がある=授業が回る」とは限らないのです。
「授業」と「経営」は別物じゃない。むしろ“同じ円の中の動き”
ここで、誤解を解いておきたいのは――
授業力と学級経営力は、“別の能力”ではないということ。
むしろ、
• 学級経営が“静脈”だとしたら、授業は“動脈”
• 学級経営が“地盤”だとしたら、授業は“建物”
• 学級経営が“空気”だとしたら、授業は“言葉”
どちらも切り離せない、循環する力なのです。
授業の中にこそ、学級経営が宿る
たとえば、こんなことを考えてみてください。
• 「この授業、今日は〇〇さんが話せそうか?」
• 「この問い方で、△△くんはついてこられるか?」
• 「前時の反応を踏まえて、今日の流れを調整する必要があるか?」
こうした思考が常に働いている教師は、**授業の中で学級経営を“している”**のです。
つまり、「学級経営力がある」とは、授業をつくる力とつながって初めて意味を持つということ。
学級経営力だけでは、子どもは育ちきらない
繰り返しになりますが、「関係づくり」「安心できる場」だけでは、教育は完結しません。
それは“入口”であり、“土台”であって、子どもたちの力を伸ばすのはやはり授業そのものです。
• よく練られた問い
• 意味ある活動の設計
• 学びを形にしていく過程
これらがなければ、子どもは「居心地はいいけど、伸びなかった1年」になってしまうかもしれません。
おわりに:どちらも“片翼”では飛べない
「授業力が大事」と言うときには、そこに学級経営の力が自然と含まれている。
でも「学級経営力が大事」と言うときには、授業へのまなざしが抜けてしまうことがある。
だからこそ、今一度問い直したいのです。
あなたの“学級経営”には、「授業」が含まれていますか?
あなたの“授業力”には、「子どもとの関係性」が息づいていますか?
教育は、教室という空間の中で、関係と問いが循環する営みです。
そのどちらか一方に寄るのではなく、両方を抱えた教師でありたい。
そう願いながら、明日もまた教室に立ってほしいと願っています