年に20回ほど、飛び込み授業をしています

大学の教員になって、3年目になりました。
ありがたいことに、年に20回くらいは飛び込み授業や師範授業をさせていただいています。
飛び込み授業とは、初めて会う子どもたちの教室に入り、1時間の授業をすることです。研究発表会や校内研修の一環として、後ろに参観者の先生方が並ぶ中で行うことがほとんどです。師範授業と呼ばれることもあります。ただ、この「師範」という言葉には、いつも少し気恥ずかしさがあります。師範と言えるほどのものを見せられている自覚がないからです。
とはいえ、呼んでいただけることは本当にありがたいことです。19年間、公立小学校の教室に立っていた人間が、大学に移ってからも子どもたちと算数の授業ができる。これは当たり前のことではありません。教室に入った瞬間の、あの空気。子どもたちの「この人は誰だろう」という視線。授業が進むにつれて変わっていく表情。そういうものに触れられる時間は、大学で学生と向き合う毎日の中で、教師としての原点に戻る時間になっています。
ただ、回数を重ねれば重ねるほど、考えることも増えてきました。
うまくいった、いかなかった、という話ではありません。もっと手前のところで、飛び込み授業というもの自体について、ずっと引っかかっていることがあります。
今日は、そのことを正直に書いてみようと思います。

指定された教科書のページで授業をする理由

最近は、学校から指定された教科書のページで授業をするようにしています。
「来週、このページの授業になります」と言われたところを、そのままやる。自分の得意な教材や、どこかで一度うまくいったネタを持ち込むことは、できるだけしないようにしています。
理由は、そのほうが協議会で活発に交流ができるからです。
飛び込みで来た人間が、自分の持ちネタで授業をすると、どうなるか。参観した先生方の感想は、「おもしろかったです」「子どもたちが生き生きしていました」で終わってしまいがちです。それはそれでうれしいのですが、協議会としては残念です。その教材は、明日の自分の教室にはないからです。「すごいですね」で終わる授業は、見た人の明日を変えません。
一方で、指定された教科書のページであれば、参観している先生方も、そのページを自分で教えた経験があります。あるいは、来週教える予定のページかもしれません。そうなると、見方が変わります。
「自分はこの場面でこう発問したけれど、今日はこうしていた」
「ここで子どもがつまずくのは、自分のクラスと同じだ」
「この展開なら、自分の教室でもできそうだ」
比べるものが手元にあるから、協議会で出てくる言葉が具体的になります。授業者への感想ではなく、「自分ならどうするか」という話になります。協議会がそうなったときは、飛び込み授業をした甲斐があったと感じます。
もう一つ、教科書のページで授業をすることには、自分への縛りという意味もあります。持ちネタで授業をすれば、ある程度はうまくいきます。何度もやってきた教材ですから、子どもの反応も予想できます。でも、それは子どもたちの力ではなく、教材の力です。指定されたページで授業をすれば、ごまかしがききません。教科書の問題を、その日初めて会った子どもたちと、どう考えていくか。そこで勝負することになります。
飛び込み授業は、私の授業を見てもらう場ではなく、その学校の先生方が「自分の授業」を考え直すための素材だと思っています。素材であるならば、特別なものより、みんなが手にしている教科書のほうがいい。そう考えて、今はこのスタイルに落ち着いています。
それでも、担任の先生の授業にはかないません
ただ、いつも思うことがあります。

担任の先生の授業には、かなわない。

こんなことを言うと、たいてい「そんなことないです」と返されます。お世辞ではなく、本当にそう言ってくださっているのだと思います。でも、私の中では、これは謙遜ではなく、ただの事実です。
理由ははっきりしています。積み重ねがないからです。
担任の先生は、4月からその子たちと一緒に過ごしています。誰がどんなときに手を挙げるのか。誰が自信のないときに下を向くのか。前の単元でどこにつまずいたのか。どの子とどの子を隣にすると考えが広がるのか。ノートの書き方、話し合いのやり方、わからないときにどうするか。そういったことが、何十時間、何百時間と積み重なって、その教室の算数の授業はできています。子どもたちの「わかった」も「わからない」も、その積み重ねの上に乗っています。
私はそれを持っていません。子どもたちの名前も、授業が始まるときに初めて知ります。座席表を見ながら、「この子の発言をどう扱えばいいか」を、その場で判断していくしかありません。前の単元でどんな学び方をしてきたのかも、担任の先生から事前に聞いた範囲でしかわかりません。
だから、私が飛び込み授業でできることのイメージは、「4月の最初の算数授業」です。
関係もできていない。学び方も共有されていない。この先生がどんな先生なのかも、子どもたちはまだ知らない。発言したら受け止めてもらえるのか、間違えても大丈夫なのか、それすら子どもたちは探っている。その状態で行う1時間です。
4月の最初の授業で、担任の先生が1年かけてつくる授業と同じものができるはずがありません。それと同じことです。どれだけ経験があっても、どれだけ教材研究をしても、積み重ねの差は埋まりません。これは腕の問題ではなく、構造の問題だと思っています。
「そんなことないです」と言ってくださる先生方には、むしろこう伝えたいのです。
あなたが毎日その子たちと積み重ねていることの価値は、外から来た人間の1時間では、どうやっても代わりになりません。だから、自信をもってください、と。

学習過程の大切さが言われる今だからこそ

ここで、もう一つの葛藤があります。
今、これだけ学習過程の大切さが言われています。
1時間の授業を点として見るのではなく、単元を通して、あるいは1年間を通して、子どもたちがどのように学んでいくのかを見る。問いをもち、試行錯誤し、友達と考えを交わし、振り返り、次の学びにつなげていく。そのプロセスそのものを大切にしよう。授業づくりの議論は、はっきりとそちらに向かっています。
私自身も、そう思っています。あちこちでそう話しています。1時間で完結する「見せる授業」ではなく、子どもが学び方を身につけていく過程こそが大事だと。1時間の授業の良し悪しだけで授業を語るのは、もうやめにしようと。
では、飛び込み授業はどうでしょうか。
前もない。後もない。たった1時間だけ、その教室の学習過程の真ん中に、外からやってきた人間が割り込む形になります。その1時間は、子どもたちの単元の流れの中では、どんな位置づけになるのでしょうか。担任の先生がつくってきた流れを、私が1時間だけ違うやり方で進めてしまって、翌日からの授業は大丈夫なのでしょうか。「昨日の先生はこうしてたよ」と言われて、翌日の担任の先生が困るようなことになっていないでしょうか。
自分が大切だと言っていることと、自分がやっていることが、どこかでねじれている。
そう感じることが、正直あります。
もちろん、飛び込み授業の1時間にも意味はあります。先生方が授業について語り合うきっかけになる。子どもたちにとっても、ふだんと違う大人と算数をする1時間は、何かしらの刺激になるかもしれない。担任の先生が、自分のクラスの子どもたちを後ろから見る機会にもなる。そう言い聞かせることはできます。
でも、言い聞かせているうちは、葛藤は消えません。
葛藤しかないのが本音です。年に20回やっていても、慣れることはありません。むしろ、回数が増えるほど、1時間という時間の短さと、その1時間に乗っている重さを感じるようになっています。

参観者がどう見るかは、正直どうでもいい

では、その葛藤を抱えたまま、何を考えて教室に入るのか。
正直に言います。参観者の先生方がどう見るかは、どうでもいいと思っています。
失礼な言い方に聞こえるかもしれません。呼んでくださった学校の先生方には感謝していますし、協議会が活発になるようにと考えて教科書のページを選んでいることも、先ほど書いたとおりです。
それでも、授業をしている最中に一番考えているのは、参観者のことではありません。
目の前の、今日初めて出会った子どもたちと、この1時間で何をするか。どのようにしていくか。それだけです。
子どもたちがこの1時間で、何を、どのように学んでいくのか。
これが大前提です。飛び込みだろうと、師範授業だろうと、子どもたちにとっては、1年間に限られた算数の授業のうちの、大切な1時間です。参観者に見せるために、子どもたちの1時間を使うことは許されません。研究発表会の「出し物」として、子どもたちを使ってはいけないのです。
だから、教室に入ったら、まず子どもたちを見ます。
今日の子どもたちは、どんな顔をしているか。どのくらい緊張しているか。最初の発問で、誰が反応したか。誰が固まっているか。予定していた展開をその場で変えることも、よくあります。参観者の先生方が「おや」と思うような展開になっても、目の前の子どもたちにとってそのほうがいいなら、そちらを選びます。指導案どおりに進めることより、今日のこの子たちが考え続けられることのほうが、はるかに大事だからです。
「4月の最初の算数授業」しかできない、と書きました。
でも、見方を変えれば、4月の最初の授業で何を大切にするかを、毎回問われているということでもあります。
どの子も入っていける問い。
安心して「わからない」と言える空気。
教科書を開いて、自分で考えてみようと思える時間。
間違えた考えが、クラスの考えを前に進めるという経験。
積み重ねがないからこそ、その1時間の中で、子どもたちと一緒につくれるものは何か。そこに全力を注ぐしかないのだと思っています。
授業のあとは、反省ばかりです
そして、授業が終わると、いつも反省することがたくさんあります。
あの子の発言を、もっと取り上げればよかった。
あのつまずきは、担任の先生なら、前の単元の話を使って救えたはずだ。
最後の5分、焦って自分がしゃべりすぎた。
名前を呼び間違えてしまった子がいた。
挙げればきりがありません。
協議会で「よかったです」と言っていただくこともありますが、自分の中では毎回、できなかったことのほうが多く残ります。
それでいいのだと思っています。反省がなくなったら、飛び込み授業を引き受ける資格はないのかもしれません。
担任の先生の授業にはかなわない。
積み重ねがない中で、4月の最初の授業しかできない。
学習過程の大切さを自分で言いながら、それと矛盾することをしている。
この葛藤は、たぶん、これから何回やっても消えません。
でも、葛藤があるからこそ、1時間を軽く扱わずにすんでいるのだとも思います。「うまくやれる」と思った瞬間に、飛び込み授業は参観者向けのショーになってしまう気がするからです。
呼んでいただける限り、これからも教室に入り続けます。
参観者のためではなく、目の前の子どもたちのために。そして、授業のあとに先生方と一緒に、「自分の教室ならどうするか」を語り合うために。
今日もこれから、飛び込み授業に向かいます。