「1年間分の教材研究をしました」というタイトルを見たけど、ふざけるな。どんだけ釣りなんだと思った
― 教材研究は、そんな軽いもんじゃない ―
たまたまSNSを眺めていたときのこと。
目に飛び込んできたのは、あるvoicyのタイトルだった。
「1年間分の教材研究をしました」
……は?
正直、最初にそう思った。
いやいや、そんなわけないだろ。
どんだけ釣りタイトルなんだ。どんだけ雑に“教材研究”って言葉を使ってんだ。
ふざけるな。
そう言いたくなった。
教材研究は、そんなに“消化できる”もんじゃない
「1年間分の教材研究をしました」――
もしこの言葉が、「来年度の教材をすべて確認して、展開例を作ってみました」程度の意味だったら、それは教材の“表面”をなぞっただけに過ぎない。
たとえば小学校の国語なら、説明文・物語文・詩・…ジャンルが違えば読み方も変わる。
算数なら、概念の構造も、子どものつまずきも、学年によって全く違う。
それぞれの単元の“肝”がどこにあるのかを見つけ出すのに、1単元だけでも何日もかかるのが本来の教材研究だ。
• なぜこの順序なのか?
• なぜこの言葉を使っているのか?
• この発問で何を引き出したいのか?
• 子どもにとって「問い」になるのはどこなのか?
こういうことを、何度も読み直して、書き出して、悩んで、授業後にまた崩れて、組み直して……その果てに少し見えてくるのが、教材研究だ。
「1年間分やりました」なんて、そんなあっさり言えるはずがない。
その「やりました」は、誰のためのものか
たぶんその人は、悪気があったわけじゃない。
忙しい先生たちに向けて、「来年度の教材を見通しやすくするために、まとめてみました」と善意で出してくれているのかもしれない。
でもね。
教材研究って、“まとめ”じゃない。
効率化のためのパッケージじゃない。
正解のストックでもない。
教材研究とは、「目の前の子どもたちとの出会いのために、教科書を深く読み込むこと」だ。
同じ単元でも、同じ学年でも、同じ答えにはならない。
つまり、“人がやった”教材研究は、あくまで「他人の視点の記録」にすぎない。
それを「1年間分やりました」として提供するなら、本来の教材研究の営みとは区別して語ってほしいと思う。
「教材研究」は“完成品”じゃなく、“問い続ける姿勢”
本当に教材研究をやっている人は、知っている。
完成した瞬間なんて、来ない。
授業をしても、うまくいかないことの方が多い。
子どもが想定外の答えを出す。
教科書の文が、思っていた以上に重かったり、軽かったりする。
「問い」がつながらなかったり、次の活動に移れなかったりする。
そして、帰り道にふと思う。
「あの言葉、使わなきゃよかったな」
「あの子、なんであんな顔をしたんだろう」
「もう一回、あの教材、読み直してみよう」
それこそが教材研究だ。
終わらない問いを、自分の中で飼い続けること。
「釣りタイトル」より、「正直な実践記録」を
「1年間分の教材研究をしました」
そんなふうに“言い切る”のではなくて、
• 「〇年〇組で、こんなふうに悩んだ」
• 「〇〇の教材で、こんな展開を試してみた」
• 「この問いに立ち止まった」
そういう具体と苦悩の詰まった実践記録のほうが、100倍読みたい。
それは、他人の答えではなく、悩み方のヒントになるから。
教材研究は、誠実であり続けたい人の営み
結局、教材研究って、“子どもの声を聞きたい”って願いなんですよね。
• 子どもに伝えたい
• 子どもと考えたい
• 子どもが何を思うか知りたい
そのために、自分が何をどう問い直せるか。
その繰り返しの中に、教材研究がある。
だから、誰かの「終わった教材研究」よりも、
目の前の「まだ始まっていない問い」に向き合う方がずっと大事。
おわりに:本気で教材に向き合っている人を、雑にしないでほしい
“1年間分の教材研究”――
そう軽く言ってしまうことで、教材に本気で向き合っている先生たちの営みが軽く見られてしまうことが、いちばん悔しい。
日々、子どもの姿と教材の間で悩み、揺れながら授業を組み立てているすべての先生へ。
あなたの教材研究は、「やりました」で完結するようなものじゃない。
その一枚のノートに、その一つの問いに、
どれだけの時間と誠意がこもっているか、わかる人はちゃんといます。
どうか、その営みに自信を持ってください。