― 教師の“善意”が、子どもの学びを狭めていないか ―
教育現場でよく使われる言葉の一つに「価値づける」というものがあります。
• 子どもの発言を価値づける
• 友達の考えに価値づけを行う
• 活動後に価値づけをして終える
これらは、主に子どもが自分や他者の学びに意味づけを行ったり、教師が子どもの行動を認めたりするときに使われる表現です。
確かに「価値づけ」という言葉には、「学びを大切にする」「意味を見出す」といったポジティブな響きがあります。だからこそ、授業研究や教育書、研修の場面でも頻繁に耳にするようになりました。
けれど、私はどうしてもこの言葉に“違和感”を覚えてしまうのです。
このモヤモヤの正体を丁寧にたどってみると、実はそこには教育における“支配と自由”、“意味の押しつけ”と“発見”の違いという、根深い問題が潜んでいました。
今回は、この「価値づける」という言葉が持つ教育的な危うさを問いながら、本当の意味での「価値の共有」とは何かを、考え直してみたいと思います。
「価値づける」という言葉に潜む“上から目線”
「価値づける」という言葉を使うとき、私たちは無意識のうちに「意味や意義をこちら側(教師)が与える」という前提に立っていることが多いように感じます。
例えば、こんな場面です。
授業後の振り返りで、ある子が「今日は難しかったけど頑張った」と言ったとします。
すると教師が「それはとても大事な気づきだよ。ちゃんと価値づけようね」とコメントする。
もちろん、これは善意から出た言葉です。子どもの気づきを「大切なものだ」と受け止めようとする姿勢は、教育の根幹ともいえるでしょう。
でも、ちょっと立ち止まってみてください。
ここでいう「価値づける」とは、いったい誰が誰に対して何をしているのでしょうか?
「あなたの発言には価値がある」と教師が“認定”するような構図になっていないでしょうか?
「これはよい」「これは意味がある」と、価値の基準を教師が決めているような印象になってはいないでしょうか?
「教師が価値をつける」は、本当に必要?
子どもが何かを感じたり考えたりしたとき、それに価値を与える必要があるのでしょうか?
そもそも、その子にとってはもうすでに“価値あること”なのではないでしょうか?
にもかかわらず、それを教師が「価値づけてあげる」というと、どこか**“上から目線”**の関係が浮かび上がります。
• 教師がよいと思う発言だけが評価される
• 価値づけの言葉があることで、他の発言が相対的に“価値が低い”と感じられる
• 「価値づけられること」がゴール化してしまい、発言が“評価を得るため”になる
つまり、「価値づけ」という言葉には、知らず知らずのうちに教師中心の評価軸が忍び込んでくる危うさがあるのです。
子どもは、自分の学びに“すでに意味を見出している”
忘れてはいけないのは、子どもたちは自分の体験や思考に、すでに意味や手応えを感じているということです。
• 「あ、こういうことか!」という納得
• 「なんでだろう?」という疑問
• 「できた!」という喜び
• 「前よりちょっとわかるようになったかも」という成長実感
これらはすべて、子ども自身が自分の学びを“価値づけている”瞬間です。
教師の「これは価値があるよ」というコメントがなくても、内発的な価値はすでに存在している。
むしろ教師に求められるのは、その「意味の種」を言葉にする手助けだったり、仲間との対話を通して価値の広がりをつくったりすることではないでしょうか。
「価値づけ」ではなく「価値をともに発見する」へ
では、どうすればよいのでしょうか?
「価値づける」という言葉の代わりに、私は次のような言い方を大切にしたいと思っています。
◎「どんな意味があったと思う?」
◎「どんな気づきがあった?」
◎「誰かの言葉で考えが変わったことはあった?」
◎「それを通して何を学んだ?」
このように、子どもたち自身が自分の学びを振り返り、その意味を言語化していくことこそが、本来の「価値づけ」なのだと思います。
教師はそのプロセスをサポートする伴走者であり、価値の“配給者”ではありません。
「価値づける」の本当の恐ろしさは、“無意識の支配”にある
一見ポジティブで、子どもの学びを大切にしているように見える「価値づける」という言葉。
でも、その裏には、「この発言は良い」「この学びには意味がある」という教師の“価値観の押しつけ”が潜んでしまう危険があります。
特に、次のような現象には要注意です。
• 価値づけられた子だけが“正解者”のように扱われ、他の子が沈黙する
• 子どもが教師に褒められることを目的として発言するようになる
• 子ども同士の対話が「評価合戦」になり、探究の場でなくなる
このような状態では、本来の自由な思考や対話、問いの広がりが損なわれてしまいます。
「価値づけない勇気」を、教師にも
私は最近、「価値づけない勇気」もまた、教師にとって重要な資質だと感じています。
• 子どもの発言に、すぐコメントしない
• 学びの意味を、あえて言葉にしすぎない
• “教師がまとめる”ことから少し離れてみる
もちろん、安心感や安全な場づくりのために、教師のまなざしや支援は欠かせません。
でも、それが“評価”や“認定”になってしまわないように、少し意識を向けるだけで、子どもの学びはずっと自由になります。
おわりに:価値は「つける」ものではなく、「見出す」もの
「価値づける」という言葉の違和感――
それは、子どもの学びを“支配しないでほしい”という願いから来ているのかもしれません。
教師がつける「価値」ではなく、子ども自身が見出す「意味」を信じたい。
その価値が、たとえ教師の目から見て“未熟”でも、“ズレて”いても、
そこにあるリアルな経験や感情こそが、学びの出発点になる。
だから私は、今日も「価値づける」という言葉をできるだけ使わないようにしています。
代わりに、子どもたちの中に生まれている“意味の芽”を、一緒に探し、一緒に広げていける教師でありたいと願っています。