大体一本書くのに30分かかることが判明しました🐘

第1部
授業論
底力を育てる授業

を読んでいきます🐘

文章のあやで相手を感じさせ説得してしまうことには問題があるが、かといって平板に筋が通っているだけで深い理解にみちびけるかどうか疑問である。


理路整然とされた文章が良しと果たして言い切れるのだろうかという主張です。

どんなにわかりやすく筋が追われていても、一方交通であるかぎり、そこにはつぎつぎと違和が育っていく。


ゆさぶられた子どもは、逆にゆさぶり返すことがなくてはならない。それは相手が教師であってもである。


所謂「ゆさぶり」もこの頃からあったと。
教師が子どもを「ゆさぶる」とき、手や腕のみでなく全身を「ゆさぶる」ならば、教師もまた「ゆさぶられる」ということになる。上田先生はこれを「ゆり動かす」と表現しています。

低学年の子どもであっても、人間である以上奥行がある。割りきったとらえかたを許さぬ厚みがある。そのことに無感覚な教師たちが計画通りの一見鮮かな授業ぶりを示して得々としているというのが、今までの学校であった。そういう平板な世界にむりやり馴らされた子どもたちが立体的な認識・思考を身につけ、底力を養うことがどうしてできるであろう。人間理解の貧弱な教師に教われば、子どもの個的全体性は衰弱する。


平面に押し込めるのではなく、立体的な認識•思考。これが「空間」なのでしょう。田村学先生の「深い学び」にも通じるところがあります。

では、底力とは

それは応用力とよべばほぼ当たるものかもしれないが、限定された場を自在に乗り越えて働く、すなわち教科などに閉鎖されぬ根源的な力なのである。こういう力を発揮させる個的全体性が発展することによってはじめて、人間の生きる力は充実する。その人としての迫力が育ってくる。教育はそれを目ざさずになにを追おうとするのであろう。


ゆとりをもつ授業。
これは息抜きをするのではなく、立往生して新しい道を切り拓く余裕をもつこと。

テストや日々の授業進行に追われてはこの余裕はなくなってしまう。かといって現場の我々はそこをすぐにひっくり返すことはできない。できないけれども、今あるカードでどう戦うか、どう主張していくかだと思いました🐘