卒業式などの儀式を体験することは西田幾多郎がいう「無我」を体験することじゃないかと思いました。
つまり、卒業式のような儀式を通して体験する感覚は、西田幾多郎のいう「無我」を感じること。
人は、欲しているのではないか。
西田の「無我」は、自己と他者、自分と世界の境界が消え、全体の一部として自己を感じる状態を指します。
彼は、主体と客体が分離せずに一体となる「純粋経験」や「絶対無」の概念を展開しました。
卒業式のような場面では、とにかく個人の自由がありません。
座り方、手の位置。立つタイミング。
まるで機械のように行動することが求められます。
歩いただけで、足音が体育館に響く。
個人としての「私」を超えて、学校という共同体の一部としての自分を感じたり、時間の流れの中に包まれるような感覚を味わったりすることがあります。
他にも、校歌を歌うときや、卒業証書を受け取るとき、涙を流す友人を見て共感する瞬間など、そこには「私」という意識が薄れ、全体の流れの中に没入する経験があります。
阿部自身、全体に没するなんとも言いえない心地よさを感じたことがあります。
このような経験は、西田が言う「無我の境地」に近いものとして捉えることができるかもしれません。
儀式の中で、個としての自分を超えて、大きなものと一体になる感覚を持つことは、まさに西田の哲学が示す方向性と一致するように思えます。
なぜ、儀式をするのか。
それは非日常を体験すること。
子どもたちにいつか、自分の考えを伝えてみたいと思っています。