ちょっと軌道に乗ってきた感じがするので、連日投稿ですが、そのうちきっと途絶えると思われます。

序の部    生きた現実につきささる力
個が生きる教育

を読んでいきます。

真実の世界であるなら、教育はまさにつまずくことから始まってつまずくことに終わるべきであるのに、作られた世界に住む教育は、ひたすらつまずきの排除しか考えていないのである。せいぜいつまずきを利用して二度と失敗させぬように導くという程度のことしか考えてはいないのである。もっと深く内容あるつまずきを可能にすることこそ教育のねらいであるとするような世界とは、まさに完全に異質であるというほかはない。


「もっと深く内容あるつまづき」
ここに本質がありそうです。
また続けて、「作られた世界あえて言えば堕落の世界である」とも述べています。

そして、個が生きる教育について
上田先生は、「集団主義」の対置としての「個別化」ではなく「ひとりひとりを生かす教育」を主張しました。本の中で述べられている「カルテ•座席表」がどのようなものかは知りませんが、一人ひとりを見取る姿勢に教育工学とは違う流れもあるいうことでしょうか。

あらためていうまでもないことだが、個というものについてまず明らかにしておきたい。個とは個個性的全体であって、たんなる一人の人間でもなければ、きわ立って他と異なる特徴をもった存在でもない。個が生きるとか育つとかいうことは、その人間の個的全体性が充実するということにほかならないのである。したがって人間はその自己統一に迫力を生み出せなければ、満足に生きも育ちもできるものではないといってよい。


自己統一に迫力をもった人間に自分自身がなれているのかという疑問はあります。

こういったワードが出てくるとなるといよいよ教育哲学というところだなぁと思います。

個が生きる教育を真に成り立たせるために、共通性への信仰を捨てる必要がある。
共通の技法、共通の理解、絶対的なものはないと自覚しつつ、なおどこまでも粘り強く真実をもとめる、その立場を「動的相対主義」と名付けています。

小手先の手立てやハウツーに違和感を感じるのはここら辺の意識があるからなのかなと。

そして教師が多元的価値観をもつことで、授業中に教師が立往生することが起こり得る。こういった不都合を愛することこそが大事であると述べています。

立往生のない授業には迫力がない、真の実りはない


視野に着目できるかどうか、それがまさに教育者の試金石である


個の繋がりや良さを見出し個が生きる。

立往生を今の言葉に直すとどうなるでしょうか🐘