教育工学について学びながらと教育工学をめっちゃ批判している本を読んでいる気がする。

ベクトルの違うところだと思っていたら、実は繋がっていたりする可能性もある気もする。

第1部    授業論
1    授業観と授業研究
授業変革のための根本視点

を読んでいきます。

たしかに今日の教師たちは追いこまれている。その姿勢を立てなおすことは容易ではない。しかしそうであればあるだけ、姑息なことではだめなのである。ばんそうこうをはるだけでは、無益どころかいっそう致命的な事態に落ちてしまうのである。よほど腰を入れて根底から体制を変えなければならぬ。優等生ぶって適当に世間の助けをかり、なんとか無難に表面を整えるといった優柔不断の姿勢こそ最悪なのである。もし脱落しそうな子の面倒をみることが受験体制ゆえに困難であるとすれば、なぜ進学に熱を上げる子や親の機嫌を多少損ずるという道くらい選ぶことができないのか。力を合わせて心をきめれば、それほどむずかしいこととはいえないとわたくしには思えるのである。多少程度ではというかもしれないが、重なり集まればかならず無視しがたい力になる。



プロとしての覚悟。そして自信も迫力も失われている。教師もみずからを根底から変えなければ、ただ自滅の道を歩むしかない。と。

なかなか、厳しいことをおっしゃる。
日々〇〇教育だの、GIGAスクールだの、教員のやることは増えるばかり。ただ、そこで覚悟と自信、そして迫力を失うばかりでは、自滅への道を歩むというのはその通りなのかなと。

教師としての迫力とは、深い知識や経験、生徒への真剣な関心から来るものなのかなと。
プロとしての覚悟とは、困難な状況でも仕事を遂行する決意や、継続的に自己成長を目指す姿勢なのかなと。

考えてみると、教師中心社会優先のカリキュラムは、いやでもそうならずにいない性格をもっているのである。子どもを疎外し人間を不在にする一方的な教育課程は、今日にいたってまことにきびしいつけをつきつけられることになってしまった。そこでは子どもは自分の場をもっていない。生きた人間としてはどうしてもはみ出さずにいられなくなってしまうということである



自分の場をもつ。とは
自分自身を理解し、社会との関係性を築き上げる場なのかなと。自己を表現でき、いわゆる「真正な」関係を社会と繋げる。ここら辺に今後の教師の役割がありそうな気がします。

教えぬのは怠慢であるとさえきめつける。しかし子どもはそれぞれに個的全体性をもっているのである。教えるということはその個的全体性に働きかけることなのである。
〜中略〜
そもそもが授業時間で教えきってしまおうとするのは大きな誤りである。むしろ授業時間は理解のきっかけを与えるだけと考えるのが正しいのである。そのあとしまつは子どもがそれぞれに授業外にやるべきである。教師がそれを確認し修正するのはもっと先の授業、すなわち別の教材の時間でなければならぬ。


個的全体性とは。
全体が個体の集まりで形成されていると同時に、個体は全体の中で意味や価値を持っている。
時として、「このクラスは」「この子は」と考えてしまいがちですが、全体としての個、個としての全体、と捉えるとまた見え方が違ってくるのかなと。

1    授業観と授業研究
授業変革のための根本視点

長くなってしまったので、この辺で一旦切ります。また次回よろしくお願いします🐘