― 算数の授業と“本当の自由”の関係 ―
最近、研修会や教育雑誌、SNS上でもよく目にするフレーズがあります。
「算数の授業に自由進度学習を取り入れています」
学校現場でも耳にするようになりましたし、「個別最適な学び」を旗印にして進んできたGIGAスクール構想の文脈からしても、このような流れは自然なことかもしれません。
1人1台端末が整備され、学習コンテンツがクラウド上に並べられ、子どもたちは「自分のペースで」学んでいく。
そう聞けば、なんとなく「今っぽい教育」のようにも思える。
しかし、どうしても私はこの言葉に引っかかりを覚えてしまうのです。
なぜ“違和感”を抱いてしまうのか
私自身も教員時代、各教科においてこれまでに様々な形で“自由進度的な”授業実践を行ってきました。全員一斉に同じ課題に取り組ませるのではなく、子どもが自分で選び、順序を決め、理解に応じて深めていくような学びを、単元全体に組み込む取り組みです。
にもかかわらず、「自由進度学習を取り入れています」という表現を聞くたびに、心のどこかで「ちょっと違う」と思ってしまう。このモヤモヤの正体はなんだろう、とずっと考えていました。
今回は、この違和感を丁寧に言語化しながら、「算数における自由進度学習とは何なのか?」を再考してみたいと思います。あえて言いますが、これは「自由進度学習」への批判ではなく、「その語られ方」への批判です。そしてそこから浮かび上がる、教師が本当に大切にすべき“自由”の意味について考えていきたいのです。
「取り入れる」という軽さ
まず、最初にひっかかるのがこの言い回し――「自由進度学習を取り入れている」。
この「取り入れる」という表現には、まるで“道具”を棚から選んで教室に持ち込むような感覚が漂います。教師の技法のひとつとして、数ある「教材」や「学習方法」のうちの一つとして、自由進度が並んでいるかのように。
しかし本来、自由進度学習とは“手法”ではなく、“設計思想”のはずです。
進度を子どもに委ねるということは、教師が単元構成の主導権を手放すことでもあります。どこで何を学び、どう確かめ、どう振り返るのか――その設計全体を、子どもの学びに合わせて変えていくという発想が求められます。
つまり、
「自由進度」は単に“個別の活動”のことではなく、教師の授業観・学習観
そのものに関わる話です。
それを「取り入れる」という言葉で片づけてしまうと、本来の重みや問いが薄れてしまうのではないでしょうか。
自由に「進む」だけが自由なのか?
「自由進度」という言葉が与えるもうひとつの誤解があります。
それは、「自由に先へ進んでよいこと」が“自由”の本質だと思われてしまうことです。
たとえば、こんな光景を見たことはないでしょうか。
• ワークシートがずらりと用意され、子どもたちは自分のペースでどんどん解いていく。
• 終わった子はタブレットで補充問題へ。
• 「終わったら先生のところに持ってきてね」と言われた子どもたちが、〇をもらうために列をつくる。
これは一見、自由進度に見えるかもしれません。しかし、ここに“自由”はあるでしょうか?
むしろ、「早くできること」が価値になってしまっているようにも見えます。自分で立ち止まったり、考え直したり、別のルートで学ぶ余白がない。
“自由”とは「スピードを上げること」ではなく、「思考や理解の道筋を、自分の学びとして選び取ること」
です。
子どもが「選んで進む」ために必要なこと
子どもに進度を委ねる、とはどういうことか。これは、単にワークシートを自由に進ませることではありません。以下のような要素が必要です。
① 学習の構造を子どもに“見える化”する
たとえば、単元のゴールが明示されていて、そこにたどり着くまでにいくつかのルートがあることが子どもにもわかっている。
どの課題が「導入」で、どれが「発展」なのか。確認の問題はどれで、応用はどこにあるのか。
そうした“地図”が共有されて初めて、子どもは自分の現在地と進む道筋を選べるのです。
② 「学びを調整する力」を育てる
「今の自分にはこの問題が難しそうだから、もう少し前の内容を復習しよう」
「友だちに説明できるようになったから、次の問題に進もう」
こうした自己調整力は、指導なしに勝手に育つものではありません。日々の振り返りやペア交流、ポートフォリオを通じて、自分の学びを“振り返る習慣”が育ってこそ、自由な進度が意味を持つのです。
③ 「自由」の中に「関係性」を
自由進度にすると、「個別に取り組んで、静かに終わる」という状態になりがちです。しかし、算数の本質は「関係性の中で意味をつかむこと」です。
「自分とは違う考え方があること」
「その説明がどうしてわかりやすいのか」
そうした相互作用を失ってしまえば、どれだけ自由でも“算数の学び”としては貧弱になってしまいます。
「自由進度」と「放任」の違い
「自由進度って放任じゃないの?」と問われることがあります。たしかに、そのように見えてしまう場面もあります。
しかし、自由進度と放任は似て非なるものです。
自由進度とは、学習を自律的にマネジメントできるように、構造と支援を設計すること。
放任とは、構造も支援もなく「好きにしていいよ」と言い放つこと。
自由進度は、教師が一歩引くのではなく、「見えないところで支えている」という高度なマネジメントです。
• 子どものノートをチェックし、必要に応じて声をかける
• 学習記録を分析し、個別のリマインドを行う
• 教室掲示や進度マップで、全体の見通しを共有する
こうした“目には見えにくい支援”を積み重ねることで、子どもは安心して「自分の道」を歩めるようになるのです。
教師が問われているのは、“見えない設計力”
自由進度学習は、教師が指導しなくていい学び方ではありません。むしろ、教師の設計力と支援力が問われる学び方です。
• 単元全体の構造をどう設計するか
• どの場面で集団に集め、どこで個別に分かれるか
• どんな振り返りと可視化を仕掛けるか
• 子ども同士の関係性をどう活かすか
こうした「見えない設計」があるからこそ、子どもたちの“自由”は意味を持ちます。
おわりに:言葉に表れない“思想”を大切にしたい
「自由進度学習を取り入れている」
この言葉を否定したいわけではありません。でも、この一言にすべてを任せてしまうことには、やはり慎重でありたい。
大切なのは、自由進度という言葉の“奥”にある、学びの思想です。
• 子どもをどう見ているか
• 学びをどう捉えているか
• 教師の役割をどう位置づけているか
それらがセットでなければ、「自由」は形骸化し、子どもたちは“自分で学んでいるふり”を続けるだけかもしれません。
だからこそ、自由進度を「取り入れる」かどうかではなく、その自由が「どんな支えの上に成り立っているか」を問うことが、教師にとっての本質なのだと思います。