― 教師の“やさしさ”が、子どもを育てるとき、妨げになるとき ―

「先生、やさしいね」
「その対応、やさしさがある」
「子どもの気持ちを大事にしていて、やさしいと思う」

学級経営を語るとき、「やさしさ」は美徳として扱われがちです。
けれど私は、こんな場面に出会うたびに、いつも心の中で立ち止まります。

それは本当に“人に優しい”のだろうか?
それとも、“自分に優しい”だけなのではないか?

今回は、「学級経営におけるやさしさの意味」を、
“人へのやさしさ”と“自分へのやさしさ”の違いを軸に、問い直してみたいと思います。


「怒らない先生は、やさしい」?


例えば、次のような場面を想像してみてください。
• 掃除をさぼった子がいた。でも今日は疲れていそうだったので、声をかけなかった
• 授業中におしゃべりが続いていた。でも強く注意すると空気が悪くなりそうで、そのままにした
• 提出物が遅れている子に、再三の締切を設けたが、結局曖昧なまま許可した

こういうとき、周囲からは「寛容な先生」「やさしい対応」と受け止められることがあります。
でも、その“やさしさ”は本当に子どもの成長を支えるものだったでしょうか?


「人にやさしくすること」と「自分にやさしくすること」は違う


ここで明確にしておきたいのは、

“人にやさしくすること”は、時に“自分に厳しくなること”を含んでいる
“自分にやさしくすること”が、実は“子どもに無責任”になることもある


という事実です。

誰かに厳しいことを伝えるのは、しんどい。
怒るのはエネルギーが要る。
関係がギクシャクするかもしれない。
子どもに嫌われるかもしれない。

だからこそ、
「言わない」という選択は、簡単な“やさしさ”のように見えて、実は“自分への甘さ”
であることがあるのです。

本当のやさしさは、“育てる”やさしさ


学級経営におけるやさしさとは、「ただ許すこと」ではありません。
「怒らないこと」でもなければ、「何でも受け入れること」でもありません。

本当のやさしさとは、“育てようとする意志”です。

• 子どもがつまずいたとき、時間をかけて寄り添う
• 子どもが間違えたとき、まなざしを崩さずに正す
• 子どもが挑戦したとき、失敗を恐れずに背中を押す

それには、「しんどさ」や「関係の揺れ」を引き受ける覚悟が必要です。


「見て見ぬふり」は、やさしさではない


トラブルが起きたとき、教室がざわついているとき、
「まあいいか」と見て見ぬふりをしてしまうことがあります。

でも、それは決して“やさしさ”ではありません。

注意しないのは、“怒りたくないから”。
関係がこじれるのが怖いから、声をかけない。

それは子どもにとって、「自分が見捨てられた」と感じさせることにもつながるのです。

子どもは敏感です。
“言わないことで流されたこと”は、すぐに気づきます。
そしてそれが、「このクラスでは大丈夫なんだ」という空気をつくってしまいます。


「自分への甘さ」は、やがて“クラス全体の崩れ”を招く


最初のうちは、穏やかに見えるクラスも、
“曖昧なやさしさ”が積み重なれば、やがてコントロールがきかなくなります。
• 決まりが守られない
• 時間が守られない
• 学びが進まない
• 教師が疲れ果ててしまう

「自分にやさしい」判断を重ねた結果、
子どもにも、クラスにも、やさしくない未来が訪れてしまうのです。


「人にやさしい」ために、今日どんな選択をするか


だから私は、こう自問します。

「この選択は、本当に子どものためか?」
「“注意しない”のは、子どものためか、それとも自分が楽だからか?」
「“曖昧にする”のは、対話の準備ができていないからじゃないか?」

やさしくしたいなら、まず“立ち向かう勇気”が必要です。


おわりに:やさしさとは、“甘さ”ではなく“支える力”


本当に子どもにやさしい教師とは、
ただ笑顔でいられる教師ではありません。
「言うべきことを、言うべきときに、言葉を尽くして伝える教師」です。

それにはエネルギーが要ります。関係が揺れることもあります。
でも、その繰り返しこそが、「信頼される先生」「安心できる教室」をつくっていくのです。

やさしさとは、「甘さ」ではなく、「支える力」。
子どもが伸びていくことに本気で向き合いたいとき、
私たち大人は、自分にやさしすぎない勇気を持っていたいと思います。